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朝は、急いで始まりません。
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夜と朝のあいだには、
誰にも気づかれない、静かな時間があります。
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空はまだ淡く、
木々は朝露をまとい、
世界は、もうすぐ始まる一日を静かに待っています。
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そんな時間に、
一つの石畳の道を歩いてみることにしました。
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一歩。
また一歩。
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石を踏むたび、
小さな音だけが足元で返ってきます。
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急ぐ理由もなく、
立ち止まる理由もない。
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ただ歩いているだけなのに、
胸の奥にあった小さな波が、
少しずつ静かになっていくのを感じました。
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ふと見上げると、
朝の光が木々の間をゆっくりと通り抜けています。
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葉先で揺れる露が、
その光を受けて、小さく瞬きました。
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風はまだ冷たく、
けれど、その冷たさは冬の終わりを告げるような優しさを含んでいます。
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深く息を吸う。
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土の匂い。
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湿った木の香り。
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朝だけが持つ澄んだ空気。
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胸いっぱいに吸い込むと、
心の中まで洗われていくようでした。
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歩く速度が、
いつの間にか少しだけ遅くなっています。
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景色を見ようとしているのではありません。
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景色のほうが、
ゆっくりとこちらへ近づいてくるようでした。
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石畳の脇に、
赤い色が揺れました。
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一輪。
また一輪。
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椿です。
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誰かに見てもらうためでもなく、
季節を誇るためでもなく。
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ただ、
そこに咲いていました。
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花びらには朝露が残り、
朝日を受けるたび、
小さな宝石のように光ります。
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風が吹く。
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一枚の花びらが、
静かに足元へ降りてきました。
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その音は聞こえません。
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けれど、
落ちる姿だけで、
時間がゆっくり流れていることが伝わってきます。
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私は、その花びらを拾いませんでした。
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そのまま石畳の上にある姿が、
この風景にはよく似合っていたからです。
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また歩きます。
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鳥居が少しずつ近づいてきます。
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木漏れ日が、
石畳へ丸い光を落としています。
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その光の上を歩くたび、
まるで朝が一歩ずつ広がっていくようでした。
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どこからか小鳥の声が聞こえます。
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姿は見えません。
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けれど、
この静けさの中では、
その声さえも風景の一部でした。
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私は立ち止まりました。
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何かを見つけたわけではありません。
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何かを考えたわけでもありません。
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ただ、
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この場所は、
立ち止まることを急かさない場所なのだと、
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そんなことを思ったのです。
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風が吹きました。
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椿の葉が、
小さく揺れます。
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その音は、
誰かが「大丈夫」と
静かに頷いてくれたようにも聞こえました。
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鳥居の前まで来た、そのときでした。
石畳の向こうで、小さな影がふっと動きます。
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一人の子どもでした。
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朝日に向かって、まっすぐ駆けていきます。
軽やかに。
迷いなく。
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その姿は、風を追いかけているようにも見えました。
何かを探しているのでしょうか。
それとも、大切な誰かが待っているのでしょうか。
答えは分かりません。
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けれど、不思議と知りたいとも思いませんでした。
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あの子には、あの子の朝があります。
私には、私の朝があります。
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同じ風景の中にいても、
それぞれが、それぞれの時間を生きています。
そのことが、どこか嬉しく思えました。
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子どもは振り返ることなく、
朝日の向こうへ消えていきました。
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静けさが戻ります。
木々が揺れる音。
遠くで鳴く鳥の声。
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どこかで一枚、
椿の花びらが地面へ降りました。
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私は、その花びらを見送りました。
何かを失ったような気持ちではありません。
何かを受け取ったような気持ちでもありません。
ただ、
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この朝という時間が、
静かに心へ積もっていくのを感じていました。
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少しだけ空を見上げます。
木漏れ日の向こうには、
青く澄んだ空が広がっています。
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風はもう、少しだけ春の匂いを運んでいました。
歩いてきた道を振り返ります。
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そこには、
さっきまでの自分が歩いていたはずなのに、
もう、その姿はありません。
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残っているのは、
椿の赤。
朝の光。
石畳の静けさ。
そして、
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胸の中に残った、小さな温もりだけでした。
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帰る場所とは、
昔いた場所ではなく、
自分の心が静かになれる場所なのかもしれません。
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人はきっと、
前へ進むために、
ときどき、そんな風景へ帰ってくるのでしょう。
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もう一度、
鳥居へ向き直ります。
朝日が差しています。
風が吹いています。
椿が揺れています。
その景色は、
何も語りません。
けれど、
何も語らないからこそ、
心の奥に、
静かに残っていきます。
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そのとき、
ふと気付きました。
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この風景には、
誰かを急がせるものがありません。
競うものも、
比べるものもありません。
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ただ、
風が吹き、
花が咲き、
朝が訪れる。
それだけで、
十分に美しい世界がありました。
そして私は、
静かに微笑みます。
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この景色が、「つばき おにやっこ」でした。
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名前には、
まだ言葉になる前の空気があります。
その空気は、
風になり、
光になり、
季節になり、
一つの風景を生み出します。
この作品は、
その風景を説明するためではなく、
あなたが、その風景に身を置くために生まれました。
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もし、いつか。
朝の神社を歩いたとき。
椿の花びらが風に揺れるのを見たとき。
誰かの小さな後ろ姿を見送ったとき。
理由は分からないけれど、
少しだけ心が静かになったなら。
そのとき、
この旅は、
あなたの中で、もう一度始まります。
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名前を聴く。
空気に出会う。
風景に身を置く。
小さな物語とすれ違う。
そして、
心の奥で知っていた景色を思い出す。
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