相手を自分のルールに
当てはめるのは、違う と思う。
そして、
自分を自分ルールに
縛るのも、違う と思う。
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そもそも論、
相手をどうこうしようと〔変えようと〕すること自体、違うと思う。
だいたい、相手をどうこうしようと〔変えようと〕考えている、している、
とき というのは、
自分の考え〔価値観、自分ルール〕に、偏ってしまっているときであることが多い。
理由が、
(相手が)自分がしてほしいことをやってくれないから、であれ、
相手の為を想って、であれ、〔←こちらの一方的な考えだが、〕
もし、
「相手を変えよう」と、していたり、強いていたり、[イライラ、ヤキモキ]
している自分に気付いたら、
今、自分は、
自分の考えに固着しているんだな、
自分の考えに偏ってしまっているんだな、
と、そうなっている自分に気付くサイン。
おそらく、
相手のことを、「こうだ」と
自分の価値観で決めつけてしまう
ところから、違ってきてしまうんでしょうね。
自分が、(相手のことを)こうだと思っていることも、自分が勝手に思っていることもある。
〔自分だけ(自分の周りだけ)の価値観なので〕
自分の計り知れないルールで、(その人は)周りの人とも〔関係性が〕上手くいっているケースも多い。
〔自分では知らないところで、ちゃんと関係性が成り立っていることも多い。〕
《たった一人の(自分の)中で
(感じている、思っている、判断している)の価値観、経験、ルール、倫理観、、などなど、
が、究極的に〔あらゆる場面において〕正しいということはないですよね。》
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この上の文章の「相手」の部分を
そのまま「自分」に置き換えてみると、
「自分を自分ルールに縛るのも、違う。」
ということも、分かりやすい。
《上の文章の「相手」を「自分」に変えてゆくと。↓》
そもそも論、
自分をどうこうしようと〔変えようと〕すること自体、違う。だいたい、自分をどうこうしようと〔変えようと〕考えている、している、
とき というのは、
(勝手に作った)自分の考え〔価値観、自分ルール〕に、偏ってしまっているときであることが多い。今、自分は、
(勝手に作った)自分の考えに固着しているんだな、
(勝手に作った)自分の考えに偏ってしまっているんだな、
と、そうなっている自分に気付くサイン。おそらく、
自分のことを、「こうだ」と
(勝手に作った)自分の価値観で決めつけてしまう
ところから、違ってきてしまうんでしょうね。
自分のことを、意識的にどうこうしようと〔変えよう〕としている時点で、
自分の本来の自然な状態ではない。
また、自分のことを、「こうだ」と決めつけていることも、
(本来の自然な自分ではなく)自分を縛り付けていることになっている場合がある。
〔自分のことを、「こうだ」と決めつけている のは、
『自分は、こうしなければならない』と なっている危うさがある。〕
物事は、意識している時点で、自然ではない。
〔意識していない状態が、自然な(自分の)状態。〕
↑取り繕っていない状態。
テレビで、バドミントンの桃田 賢斗さんが答えていました。
「大事な試合で、冷静でいられるには、どうしたらいいですか?」
という質問に対して、
『冷静になろうと、意識している時点で、冷静(な状態)ではない。』
喜怒哀楽、いろんな感情が、あってイイ。
いろんな発想が湧いてきてもイイ。
自分を縛り付けないで、自由にしてイイ。
何が良い悪いと判断しなくてイイ。
自然に振舞ってイイ。
なので、
自分は、「こういう人間だ」とか、
「こうなりたい」とか、考えるよりも、
何も(難しいことを)考えずに、
自分の
やりたいことをやってる。
楽しいことをやってる。
で、いい。
イヤなことは、やらない。
で、いい。
それが、
自然な自分になっている(状態)
ということなんだと思います。
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